理論が完璧なものじゃない以上、
理論とはざっくりとしたマップです。
伊能忠敬が歩いて測量するという膨大な時間と労力をかけて、恐るべきほど正確な日本地図を作り上げました。
でも、理論はそんな正確じゃない。
大雑把に全体を見通すものです。
なぜなら、理論には穴があるからです。
「こんな感じの方向性でやっていけばいいのね!」的なくらいでOK。
理論を妄信すると、後が大変です。
そこから抜け出せなくなるのです。
家族が犯人なのに、家族に信用しきってしまい疑うことすらしないみたいな感じです。
ひとつの物事を習得するには、とんでもなく時間がかかります。
あらゆる場面に遭遇して、その数をこなすことによってどんな状況でも対応できるようになります。
例えば、サッカーなら試合で全く同じ場面に遭遇することは一度たりとてありません。
でも、一流の選手たちは初めての状況にもかかわらずベストな選択をします。
逆にサッカーは相手のゴールにボールを入れるスポーツだ!と教えてもらったばかりの幼児だったらどうなるでしょう??
ゴール前でボールがコロコロと転がって来たら、「ゴールに入れなきゃ!」と自分のチームのゴールにも関わらず叩き込んでしまうかもしれません。そして喜ぶ。笑
(これは幼稚園児あるある笑)
ベストな選択どころか、無難な選択も出来ないかもしれません。
ですが、この幼稚園児は学びます。
相手のゴールは反対側だと。こっちは味方のゴールだと。
そうやってひとつひとつクリアしていくんです。
ボールを持っているとき、敵との距離が3メートルだったら?
はたまた5メートルだったら?
敵に背を向けてボールを受けたら?
みたいな感じで、色々な状況に遭遇し学習していく。
そうやってどんな状況にも対応できるようになっていく。
縦と横を掘削することによって、どんな状況にも対応できるようになります。
縦とは、同じことを繰り返しまくって理解を深めること。
横とは、異なる状況に遭遇しまくって理解を広めること。
この中から出来るだけ大きなおたまですくった部分が、理論になるわけです。
木で言う幹の部分、枝葉末節は切り捨て御免。
でも、達人たちは枝葉末節部分まで自然と注意が払える状態になっているのです。
その膨大な経験量によって。
理論とは、エッセンスであり、全体像でもあるのです。
達人が残した遺産。
達人に最短距離で近づくための遺産。
ただ、人間の脳に詰め込める量や時間にも制限がかかっています。
命は無限じゃないですからね。
ショートカットしたいのは当然です。
だから理論を学びます。
エッセンスや全体像を知ろうと思うのです。
そのとき、枝葉末節は切り捨てられています。
自分で幹からにょきにょきと枝を生やし、葉や花を充実させていく作業をしなくてはいけないのです。
まだノウハウが無かったその道の達人は、きっと縦横無尽に試行錯誤したはずです。
今やコツやノウハウはシェアされる時代ですが、感覚派の人たちもきっと今でも理論ではなく自分のセンスを信じゴリゴリやっているでしょう。
理論から入るのであれば、この部分を付箋に書いて心に貼っておくべきです。
縦横無尽・試行錯誤型の達人たちと逆からアプローチするということなのですから。